過去と現在ときどき未来

過去と現在ときどき未来について感じたことを感じたままに

阪神淡路大震災は僕の人生に影響を与えたか -震災から29年-

1995年1月17日に発生した阪神淡路大震災から29年となる。


----------
僕は、阪神淡路大震災が発生した当時、神戸市内に通う高校生だった。

三連休明けの朝5時46分。目覚ましは6時にセットしていたから、目覚める少し前。

「ゴゴゴ・・・」と地鳴りで目が覚めた瞬間に、とてつもない衝撃が襲った。

寝ていたベットにしがみつくように衝撃に耐えた。


地震は、それまで自分がイメージしていた「揺れる地震」とは全く異なった。
揺れるというより、まるで隕石が落ちたような衝撃だった。

実際に僕は、隕石か飛行機か、そのような大きな何かが墜落した衝撃だと思った。

地震の揺れだと知ったのは、最初の地震から60分後くらいだった。停電していたことと、ラジオもつながっているけれど放送がなく、情報が入ってこなかった。

1995年は、まだインターネットも携帯電話も一般家庭には普及していない時代だ。

 

それでも僕の家や家族は、全くの無事だった。
僕の家は神戸市内の郊外エリアにあり、震度は大きかったけれど、地盤が固いエリアということもあってか、家屋や建物の倒壊はほとんどなかった。

本震があって10分くらいは停電だったと思うけれど、間もなく電気は復旧し、水道やガスも一時的には止まったけれど間もなく使えるようになった。

なんなら、僕は学校がいつも通りあるのではないかと、最寄り駅までは向かった。
駅に着くと電車が止まっており、そこで地震で影響が出ていることを知る。

 

地震の酷さを知ったのは、阪神淡路大震災の被災地以外の人たちと同様に、テレビ放送だった。

長田が燃えている様子、建物が倒壊している様子が空撮されていた。

テレビの映像を見て、初めて神戸が地震の中心地にあることを知る。

僕はその時まで、きっと関東でもっと大きな地震があったのではと思っていた。なんとなく自身は関東で発生するイメージがあった。

関東で大きな地震があって、日本中で大きな揺れがあったんじゃないかと思っていた。

しかし、地震の揺れの中心は僕たちの住む神戸であった。
(後に淡路、芦屋、西宮など兵庫県南部広くに被害が出ていることを知る)

----------

ただ、先に書いた通り、僕の家は家族含めて無事だったし、近所もほぼ無傷だった。
ライフラインもいつも通りだった。

通っていた高校の同級生の中には身内や家が無事でもライフラインが止まり、不自由な生活を強いられていた人もいた。

僕自身は不自由なく過ごせていたのだけど、同級生は不自由な生活。
僕自身は毎日自由に風呂に入れたけれど、同級生は地震から1か月近く経ってようやく風呂に入れたという不自由さ。

被災地だけど被災地ではない。
自由ないつも通りの自分の環境がとても心苦しい部分があった。

----------
阪神淡路大震災によって、人生を狂わされた人たちがたくさんいた。
身内を亡くしたり、家や職場が壊れたり、または全焼したり。

数日前には思いもしなかった状況になり苦しむ人たちがたくさんいた。

ただ、震災をきっかけに人生を見直す人たちも多くいた。
震災をきっかえに決意を新たにする人たちも多くいた。

例えば著名人で言えれば、楽天の創業者の三木谷浩史さんは震災で身内を亡くし、
人生について考え起業の予定を早めたという。

起業を早めたことで、インターネット業での起業となったともいう。
震災が三木谷さんの人生に大きな影響を与えた。

www.nikkei.com

----------
ただ、僕はどうだろうか?

確かに、震災当時は多感な高校時代だったから、自分の人生や将来について考えはした。自分の人生でやりたいことはやろうとか。悔いのないように生きようとか。
そんなことを考えた記憶がある。

ただ、人生でやりたいことをやる・悔いのないように生きる決意も大学生になり社会人になるにつれて、薄れてしまった。

阪神淡路大震災が僕の人生に影響を与えることもなく、震災をきっかけに自分の人生を変える行動もできなかった29年間だった。

地震の被害によって強制的に自分の人生を変えざるを得なかった人たちがいる一方で、
地震をきっかけに自分の人生を一つも変えられなかった僕がいる。

 

阪神淡路大震災から29年経った今、地震をきっかけに新たな気持ちで自分の人生を変えていくことはもうできない。

だけど、地震に限らず人生で体験するできごとから学んで自分の人生に生かすようにしていきたいと思う。

人生最初の「死ぬかと思った」記憶

子供の頃の「はじめて」の記憶。

嬉しかったことよりも、辛かったことや悲しかったことや恥ずかしかったことの方が鮮明に覚えてはいないだろうか?

僕は、人生最初の「死ぬかもしれない」と思った記憶が40代である今も鮮明にある。

幼稚園の頃の話だ。

登園後、教室に入る前のちょっとした自由時間でのできごと。


当時の僕は、園内にいる池の鯉に興味を持っていた。
大きな鯉がゆっくりと泳ぐ様子が珍しかったのだろう。
あと、生きた魚を上から眺めるのが面白かったように感じていたような気もする。

そして、僕は池そのものにも興味を持っていた。

鯉が泳ぐ池は底が見えないくらい暗かった。
永遠に底がないように思え、池に興味と少しの恐怖心みたいなものがあったことも覚えている。

そんな興味を持つ鯉と底なしに思える池をもっと近くに見ようと、僕はかがんで池をの覗き込んだ。その時事件は起こった。

背中に背負っていた登園リュックが背中から頭の後頭部にずれたのだ。
リュックで頭が重くなった僕は、そのまま頭から池へダイブした。

池へダイブした僕は、必死で水面へ顔を出し慌ててバタバタした。

顔の近くにはあの鯉たちが僕と同じく慌ててバタバタしている。なぜか僕は、この状況をスローモーションの映像で鮮明に覚えている。
バタバタしているのだけど、一つ一つの動きがとてもゆっくりで、鯉と目があったことも覚えている。


そして僕は、その状況で人生で初めて「死ぬかもしれない」と感じた。
このまま底なしの池へ沈んでしまのかもしれないと思った。

そして、おそらく人生で初めて言葉の通り死ぬほど「必死」になったのもこの時が初めてだったと思う。水面に顔を出し息をしようと必死だった。

気が付くと僕は大人たちによって池から救出され、一命を取り留めた。
ちなみ、その底なしの池は、園児が立てば、顔がでるくらいの浅さで溺れることはない程度の深さの池だった。

とにかく、そんなことは知らない僕は泣きはしないが、九死に一生を得た面持ちでいた。そして、まだ始まった一日だが、憔悴していた。

ただ僕は、憔悴していた割には、その後、帰ることもなく幼稚園での一日をいつも通りに過ごしていたようだ。ただ僕の記憶では疲れ切っていたので、表向きと心の中が違ったのかもしれない。


この池に落ちたことで「死ぬかもと思った」と同時に、「恥ずかしい」と思ったことも鮮明に覚えている。何に恥ずかしいと思ったかというと、ずぶ濡れになった服を幼稚園管理の代わりの服に着替えて、その服でその日を過ごしたことだ。

自分の服ではなく幼稚園管理の服へ着替えたことで「やらかした」ことを実感し、とても恥ずかしいと思ったのだろう。

幼稚園の出来事の中でも強烈に記憶に残っている出来事だ。

思い描いた未来は現実にはならず

子供の頃に思い描いた未来はどんな世界だっただろうか?

 

子供の頃の未来の世界を描くとき、ドラえもんの影響は大きいかもしれない。

ドラえもんは、支援ロボットだけど、支援ロボットが僕らの生活の身近になってくる未来はそう遠くないだろう。人型であるか猫型であるかはわかないけれど、ロボットが僕らの生活のパートナーになる日は近づきつつあることは、日々の進化を見ていると感じる。

ドラえもんの中で出てくる道具についてはどうだろうか?
「どこでもドア」ができる時代になればよいのにと、誰しも一度は思い描いたのではないだろうか?

2024年時点、まだ「どこでもドア」で物理的にどこでも行けることはできない。
だけど、インターネットやVRの進化によって、遠くの情報であったりその場にいるかのような疑似体験はできるようにはなった。

いつか疑似体験が「疑似」でない感覚の体験ができるような予感もする。

ドラえもんで出てくる様々な道具の中で、ほぼ実現できているものだってある。

「ほんやくコンニャク」だ。コンニャクを食べるあらゆる言語を自国語のように扱えるもの。

2024年時点だと、グーグル翻訳など翻訳ツールでほぼ近しいことは実現できている。
今後のAI進化によって「ほんやくコンニャク」以上のことだってできる時代がくる予感もする。


ドラえもん以外では、どうだろうか?
スマートフォンは、子供の頃に思い描いた未来にはあっただろうか?

僕の記憶ではスマートフォンに該当するものは、子供の頃の漫画や小説には出てこなかったと思う。タブレットは、映画「2001年宇宙の旅」に近しいものが出てきた記憶があるけど、「2001年宇宙の旅」の中にもスマホはなかったと思う。

スマホよりもタブレットよりも後に世に出てくるスマートウォッチは、子供の頃に読んだ漫画や小説にも出てきていた。

そう思うと、世の中に受け入れられるスマホを生み出したスティーブ・ジョブズは偉大すぎたと思う。彼がスマホを世に出してからもう15年もたつのに、今もまだスマホはあの当時の形をベースとして進化している。

スマートフォンほどインパクトはないかもれないれど、僕は冷凍食品は子供の頃に思い描いた未来に少し近い。現在では冷凍技術が発達し、冷凍食品にできない食品のほうが少ない。しかも回答後の味がどれもおいしいのだ。

子供の頃に、温かい食べ物が一瞬で提供されることを思い描いていたけれど、それに近い状態にはなってきている。

 

ただ、僕が子供の頃に思い描いた未来で、最も未来に期待をしていたものが、2024年時点では実現できておらず、おそらく思い描いていた未来にはならないだろうことがある。

それは、車が空を飛ぶ未来だ。

映画「バックトゥザフューチャー2」や「ブレードランナー」では、車が飛んで通行していることが日常の世界だった。

それぞれの時代設定は、バックトゥザフューチャー2は2015年、ブレードランナーは2019年だ。

両作品の時代設定は遠く過ぎ去ってしまった。
2024年時点で、車が空を日常的に飛んではいない。また、きっとこれから先も乗用車が空を飛んで通行している時代は訪れないように思う。

もし、ドラえもんの「タイムマシン」に乗って子供の頃に自分に未来について話してよいのなら、「残念だけど、最も期待している車が空を飛ぶ未来は来ない」と期待値を調整したいものだ。

 

そして、子供の頃の自分に「思い描いた未来は現実はならないけれど、思い描かなったもっと素晴らしいものが未来で待っているからお楽しみに!」とも伝えたい。

なぜか記憶に残っている会話 -高校の物理の非常勤講師

スピーチや会話の中で記憶に残っているフレーズや内容って、いくつかあると思う。

担任の先生、部活の先輩や先生、職場の先輩や上司、または友人たちとの話の中で記憶に残っている会話。その後の自分の人生に影響を与えた内容もあるだろう。

だが、決してその後の人生に影響は与えるほどでもないけれど、なぜか記憶に残り続けている会話はないだろうか?

僕にはそんな、なぜか記憶に残り続けている会話がいくつかある。

-----

高校1年生の頃の話。もう今から30年近く前になる。

物理の非常勤講師の男性の先生がいた。

生徒からは「ルパン」というあだ名で裏では呼ばれていた。
「ルパン」の名の通り、背が高くて細身だったからだ。

ルパンは、高校教諭を目指して試験を受けては落ち続けている先生だった。

ルパンは物理の先生だったのだけど、物理の授業内容については全く記憶がない。

ただ、他の先生たちの授業と違う点があり、その会話が今でも記憶に残っている。

 

何が他の先生と違ったかというと、時々ルパンが好きなものを紹介してくれる時間があったのだ。同級生はどう思っていたのか分からないけど、僕は実はルパンの授業以外の話は結構好きだった。

 

その中でも記憶に残っているのが、好きな映画作品についてだった。

-----

ルパンが紹介した映画「今を生きる」

進学校に赴任した先生が型破りな方法で、生徒たちに今を生きる大切さを説く映画。
きっと、ルパンはこの「今を生きる」に出てくる先生に理想の先生姿を重ね合わせていたんだろうと思う。

いつもは淡々と物理の授業を進めるルパンが、とても熱を込めて『「今を生きる」は絶対観たほうがいい』と話している様子は鮮明に記憶に残っている。

僕は元々映画好きだったこともあって、「今を生きる」は鑑賞済だったが、当時はそこまで僕の心に刺さらなかった。だけど、大学生になり社会人になり、大人になるにつれてこの作品の素晴らしさに気づけた。作中に出てくる先生の気持ちが理解できるようになったからだ。

 

ちなみにルパンは、僕らに作品の魅力について話す中、「今を生きる」を途中までずっと「明日を生きる」と言っていた。
ルパンは、途中で自分で誤りに気付いて訂正していた。
「今」と「明日」では、この作品のメッセージが変わってしまうレベルの誤りだった。

このあたりが、もしかしたら高校教諭の試験に落ち続けてしまう要因の一つだったかもしれない。

-----
ルパンは僕が高校2年生に進学するときに他の学校へ転任した。
その後のルパンについては全くわからない。

無事に高校教諭の試験に合格しただろうか?

 

今でも高校時代を思い出す時には、なぜかルパンの会話を思い出す。

高校時代の授業で覚えている会話なんてほとんどない中、授業の思い出として記憶に残ってくれて感謝している。

ありがとうルパン。

過去は記憶の中で生きていく-思い出の場所が消えた街-

思い出の場所を久しぶりに訪れると、過去の記憶が鮮明に思い出される。
誰しもが経験があることだろう。

友達や恋人や家族と一緒に過ごした場所。
よい出来事もあれば辛い出来事もあったかもしれない。

だけど、良いも悪いもすべてが人生での大切な思い出であることには違いない。

そんな僕にもある思い出のある場所が、僕の育った街から消えた。

-----

年末年始に地元である神戸に帰省した。
神戸の中心駅である三ノ宮駅周辺を散策した。

神戸の街は、1995年1月17日の阪神淡路大震災によって大打撃を受けた。

阪急三宮駅は崩れ再建されたし、JR三ノ宮駅隣にある旧神戸新聞会館ビルは崩壊し新しく商業施設ビルが建築された。

その他も市役所ビルが崩れたり、雑居ビルが根こそぎ倒壊したりした。

その一方で、隣のビルが倒壊していたりするのに、ほぼ無傷のビルも多くあった。

僕が小学生から高校生の頃に通ったビルや図書館もそのほぼ無傷のビルの一つだった。

-----

「さんぱる」というビルには僕が子供の頃にはジュンク堂書店が2フロアにわたってある巨大な書店があった。

参考書や専門書なども多く取り揃えてあってよく通っていた。
当時好きだった同級生の女の子もよくこのジュンク堂を見かけることがあり、偶然見かけたときの嬉しい感情はよく覚えている。

また、小学生の頃は「さんぱる」に入っていた英会話スクールにも通い、初めて外国人先生とコミュニケーションを取れて嬉しかった感情を覚えている。


「さんぱる」ビルの隣には図書館があり、家族でほぼ毎週通っていた。
絵本や紙芝居を読む小さな頃から小説などを読む高校生まで、家族と自分の思い出の場所だ。

ちなみに、この図書館に先ほどの「当時好きだった同級生の女の子」も家族で来ているのを小学生時代は見かけることがあった。この頃はまだ彼女に対して好きという感情は芽生える前だった。

そんな嬉しい感情や家族との思い出の場所である「さんぱる」と図書館がある一帯が、再開発のため、解体された。

-----

年末年始に「さんぱる」と図書館があった場所に行くと、工事の塀で囲われていた。

その場には「さんぱる」も図書館の面影も全くない。とてもショックだった。
思い出が崩されて消されてしまったような感覚。

1995年の阪神淡路大震災三ノ宮駅周辺が崩壊した様を見たときも大きなショックはあったけど、その時は多くの人その悲しみや寂しさを分かち合えた。そうやって喪失を乗り越えっていった。

ただ、「さんぱる」と図書館の建物が全て解体された様子を悲しみや寂しさを分かち合う人がこの場にない。

不思議なくらい胸が締め付けられた。

-----

僕は2024年現在、40代後半の中年といわれる年齢だ。

それなりに出会いと取得もあれば、別れと喪失もあった。

少しくらいは人生とは「出会いもあれば別れもあるよ。喪失だってある」ものだと言えたりするくらいの経験はある。

だけど、自分だけの思い出の場所が丸ごとなくなることは、喪失の中でもまた特別な喪失感があった。人生での新しい感情だった。

-----
これまで久しぶりに「さんぱる」や図書館に訪れると蘇る過去の記憶はもうない。
過去の記憶の中で「さんぱる」や図書館の姿と思い出を生かしていく。

2024年1月1日に令和6年能登半島地震が発生し、多くの命が奪われると共に津波によって街が崩壊した。

被災した方々にとっての思い出の場所は、もう同じ形では元通りにはならない。
それでも、周囲の人たちと悲しみや寂しさを分かち合うことで、乗り越えていける。

周囲の人たちと分かち合えない特別な場所の思い出は、過去の記憶の中で大切に生かし続けることになるし、生かし続けてほしい。

この度の令和6年能登半島地震で被災された方々の復興を心からお祈りしたい。